ある方のmixiの日記で、「感謝して肉を食べるって、間違ってるよね?」という話題で盛り上がっています。私も、この言い方には違和感を感じています。「感じるはずなのは、お詫びの気持ちだよね」と思っていたので、同じような人がとても多いことを知って、勇気付けられました。
例えば、
「ある人が殺人をして金品を奪いました。そのときのお金のおかげで、犯人はその後の人生を生きていくことができました。犯人は被害者に感謝しています。みなさんも人を殺して略奪したときは、被害者に感謝しましょう。」
これ、正しいとはまったく思えません。
リンチ殺人犯が裁判で、「被害者の分も生きていきたい」と言って、ずいぶん世間の反感をかっていたと思いますが、これは肉のために殺した動物に感謝する感覚と似ていると思いました。
それに、感謝の言葉、「ありがたい」も、「有り難い」と書くわけですから、あまり存在しない事柄や物に対して感じる気持ちなわけですよね。「親に感謝」だって、親というのはむやみにたくさんいる存在ではないから「有り難い」わけで。これだけ飽食の時代で、捨てるほど肉を生産しておいて、本当に「有り難い」なんて感じながら食べているのでしょうか……。
採集メインで一部狩猟で生きていた時代は、肉なんてあまり手に入らなかったそうですから、その頃には肉を「有り難い」と感じたのかもしれませんが、この現代、毎日のように肉をスーパーで買ってきて食べるためにいう「感謝」は、やはり言い訳なのでは?と疑問を感じます。
感じるはずの気持ちは、お詫びじゃないのかなあ?とどうしても思ってしまいます。
これは「実験動物に感謝する」という言い方にも感じています。申し訳ないと思いながらだったら、ほんとうに減らしていくことができるのではないかと思いますし。
そういえば、カーニバルの訳語「謝肉祭」は肉に感謝する祭の意味だと勘違いされていたりもするようですが、カーニバルの語源はラテン語の「肉よ、さようなら!」なので、「肉を断つ(謝する)前の祭」の意味で「謝肉祭」と訳されたのだと思います。「断肉祭」でも正しい気がしますが、「謝」の字があてられたのは、断肉に「謝する(わびる)」気持ちが込められていることを察してではないかと想像してしまいます。(昔は、懺悔しながら肉断ちをする期間がその後に待っていたわけで)
しかし、もしかしたら「謝する」という言葉は、詫びるという意味ではあまり使われなくなってきているのでしょうか。辞書を見ると、「感謝する」という意味もありますね。もちろん、「退ける・断つ・ことわる」の意味もあるのですが。
そういえば日本人は、外国人が「ありがとう」と言う場面でも「すみません」と言ったりしますが、実は「ありがとう」と「すみません」の境界線はあやふやなのでしょうか。
でも、ばくばく食べるための言い訳の感謝には、「有り難い」ものをいただく「すみません」のニュアンスはないような気がします。だから本当の感謝ではない気がしてしまうのかな。