先日、ナショナル・バイオ・リソース「ニホンザル」のシンポジウムに行ってきました。一般からの参加者もかなり少なかったのではないかと思いますが、関係者を含めた全体でも参加者は少なく、会場はガラガラでした。
シンポの最後に、このプロジェクトで生まれたサルが思ったほど活用されていないというような話が出ましたが、なんとなく雰囲気低調?な感じはして、別の意味でリダクション(数の削減)になっていくといいな…という感じです。
とはいえ、すでに子ザルの供給も始まっていて、ほんとにウツになります… シンポに行く前も相当気が重く、ここに記録を打つのも本当はとても気が重いのですが、記憶をとどめるためにも打っています。
まず、またしてもケージ飼い繁殖しかやっていない鹿児島の民間業者による発表はなく、霊長研の放飼場のような自然いっぱいの施設ばかりが宣伝されるという構図がありました。この2施設はまったく条件が違うわけで、どうして民間施設については説明しないのかという質問を用紙に書いたら、「条件の違う2施設で均質なサルが提供できるのか」という質問に体よくまとめられてしまったようですが、それについてはまぁ最低限の実験動物の要件を満たせばよいと考えているという返答でした(子サルの親がわかるなどすればよい)。 検疫については1つにまとめる方向という話です。
霊長研の施設については、確かに自然の樹木を生かして、水も外へ排出しない形に配慮したようですが、でも「出荷」前に慣れさせるためのケージの写真も紹介されていたし、そういった施設が建つと、放飼場も思ったほど広いものではないと感じました。
そして、サルの母群は年5%は自然に死亡して減っていくのだそうです。ピーク時600匹以上いたのが、4年後に400匹台に落ちているのは、それなら確かに計算は合います。捕獲導入時に、高齢のサルだけは引き受けないということはできなかったのは想定外だったとのことでした。
それから他の話は……実験礼賛オンパレードでしたね(´・`)。ここちょっと疲れました。バイオリソースのサルを使った報告はあるべきですが、なんかちょっと違う話が長かったような?
まずウサギの耳にコールタールを塗って、がんができたという「記念的」実験の話とか。そのとき、研究者が喜びの書を記したというのは、衝撃的な話でした。そのがんの写真は、とてもウサギの耳の原形をとどめていると思えないほどの状態なのに、それでも喜びが勝るというのは、やはり私には理解の域を超えています。(人にそのようなことができるということに、原罪に近いような、罪の意識のようなものは生じないのでしょうか… 手を汚しても研究するのだという自己犠牲的な雰囲気ならまだ理解するのですが、嬉しいってのは……???)
この研究が、今でも関係者の間ではほんとうに礼賛されているのを知って、やはり驚いたのですが、動物に人工的にがんをつくって、そこから治療法を探すという流れを作った功罪は問われないのか…と思います。
それから「無駄な実験」という表現について。「成果が役立つものではない」=「無駄」と考えるか、「研究のやり方そのものに不備があったり、科学自体の方向性を惑わせるような研究(トンデモという意味? それか、利益相反という意味か、栄誉のための捏造という意味??)」=「無駄」と考えるか、無駄の考え方が違うという話があり、そこは少し興味深かったです。意味はどうあれ、「無意味な研究」という概念が研究者サイドにもあるようなので。それはそれでなくして行くべきだし、結果動物実験が減ればそれは歓迎です。
ただ、やはり研究者が好奇心を持ったテーマを何でも研究してよいとは思えないんですよね…。やはり社会が「くだらない」と思うものは、「くだらない」研究である可能性はあると思います。そこは何らかのチェック機能があるべきではないのでしょうか。税金が投下されているという意味でも、科学の暴走を許さないという意味でも。
とくに脳研究なんて、メッチャ危険をはらむと思うし、「無駄」というより「ヒト・社会に有害になりうるもの」をストップさせる仕組みはほしいと思います。
あとは、「この子の病気を救うためには動物実験が必要だ」という赤ん坊の写真が出ました。毎度、という感じですけど…。
この写真を見ると、私はいつも、アメリカのローレンス・カーターさんという障がいを持つアニマルライツ活動家のことを思い出します。彼はまさに子どものとき、こういった「この子ために動物実験が必要だ」というポスターに写真を使われたんですよね。そして長じて、動物実験反対の運動をするに至った。研究者には目の上のたんこぶなんだと思います。研究者に、演台から暴力で引きずり下ろされたこともあったそうです。(よくわからないです、自分に都合の悪い患者の願いは、邪魔??)
なので今、目の病気の子どもを使っている理由がなんとなく想像ついてしまうのです。アメリカはそういう体験をしているので、このポスターに写真を使うのは、「大きくなってから残酷な動物実験の写真を目にすることのない子ども」である必要があったのだと思います。(つまり、本気で目を治したいと思っているのか?と思ってしまうという意味)
あとは、流行の(?)ブレイン・マシン・インターフェイスですね…。SFの世界が現実に近づいてきている感じですけど、やっぱり最初は動物です。やはりサルの実験を見れば、不気味でおぞましい感じがします。
意図的にサルが映らないようにしている映像があることを思うと、やっぱりその「見た目の悪さ」は研究者の人も絶対にわかっていると思います。
その不気味な感じというのは、やはりサルと人間との間に支配・被支配の関係があるから出てくるのかもしれないし、もっと根源的なものなのかもしれないけれど、実用化される人間の社会にも、支配する人々と支配される人々がいることを思うと、こういった脳に関する技術が夢ばかりを生むとはとても思えません。
私は、この日は土曜日だし、もっと一般の動物に関心を持っている人がたくさん聞きに来てくれたらと思いましたが、やはり動物に共感のある人たちは、恐ろしくてこういうイベントのチラシのページのURLをクリックすることもできないし、動物実験されている動物たちの話を聞いたり写真を見たりすることはとてもできないのだと、改めて気づきました。
気が重いとは言いつつ、こういうイベントに行けるのだから私はちょっと神経ず太い方なわけですが、でもなんだか「ここが肝腎」みたいな、ひどい話のときにけっこう寝てしまったりすることがあるんですよね…。専門的な話だから?と思っていましたが、根源的な恐怖を感じると、人ってそれを無意識に避けるために寝てしまうことがあるという話を聞いて、もしや?と最近思っています…。(ってか、単に逃避ですか、すいません)
ノドから冷やす脳冷却法の研究なんかは、とても実際的で、根拠も明快で、カキ氷で脳が冷えるぞ人体実験(?)の段階で、「私が運ばれたんだったら、動物実験なんてしてないで今すぐノドから冷やしてくれーっ」という感じですらありましたが(あっ、別に私自身はそんなに救命してほしいわけじゃないけど??)、実際にはえーっ、動物でもイチイチやるわけーっ!?という感じでした。冷やされるノドの表面のことも、救命と天秤にかけたら救命のほうが大事じゃないかと思うし、短時間からだんだん長く試すとか、何か問題を回避する方法と併せれば別に人間で試しはじめてもほんとは問題ないレベルの話に感じました。人のノドの型と合わせて、接触面を確かめるとか、そんなこと動物より先にするべきだと思うし…(だいたいサルの体の形に合ってても仕方ないし?) 要するにこの複雑な現代社会の中で、医療機器として販売するものを開発しようとすると動物が犠牲になるということですよね…。
あとは、質疑応答では…
別に動物実験してほしいとも何とも書いていない患者さんが、自分のような人のことを「わかってほしい」と書いているだけで、動物実験が求められていると研究者の人は思うみたいだったのでなんとなく気になり、「ではサルのことはわかってあげたいとは思わないのか?」という質問をしたら、会場(ほとんど実験関係者)がどっと笑ってました。
なんだぁ? そんなの当たり前じゃないかという笑いなら理解するけど、絶対そうじゃなくて、これは、サルをかわいそうなんて思うことはばかばかしいこと言いやがるぜという笑いだと思います。
こんな人たちがサルで実験していることを患者が知ったら、その人間性のなさに絶望すると思う。
この質問の答えで、研究者はなるべくサルが喜んでケージからでて実験に参加してくれるように馴化すると言っていたけれど、私はやっぱりそれは、サルにとってはストックホルム症候群に近いような、選択の余地のない状況の中での教化だと思います。サルの生活の全ては圧倒的な力の差で人間に支配されているし、エサや水だって実験のために制限されるのだから。
(ストックホルム症候群は、監禁されている被害者が犯人を好きになってしまうという心理で、よく何か事件があると報道されるやつです。「協力・信頼・好意で対応するほうが生存確率が高くなるため起こる心理的反応が原因と説明される」(Wikipediaより))
それから、生理研では以前、動物実験委員会の委員でもある研究者が自分の計画書に自分ではんこを押して、それで実験承認になっていた例があったので、そのことを書いて、今は委員自身の実験の審査はどうしているのかと質問したら、その実例の部分は読み上げませんでした(--) けっこう都合よくないですか、それって…(絶句。だから挙手ではなく紙に書かせるのだな?)。
でもこの件は、これから対応するであろうというまとめ方だったので、今は特に何も対策とられていないという回答と受け止めました。
産総研の人にも聞きたいことがあったけれど、質疑応答に出ないで帰ってました。(帰るって言ってましたっけ?アレ?)
なんだか長くなりましたが、それでも言い足りない感は残ります。
そうそう、文部科学省の人が、研究を演劇に例えたら自分たちは研究者を支える舞台のようなものだとかっこいいことを言っていたけど、そんな台みたいに何もしてないモノか~? と思いました。国は、研究費という道具を使って、どの役者を主役にしてどの役者を端役にするかキャスティングも決められるし、さらにはシナリオも書ける。興行主みたいなもんですよ。資本は税金。責任重大だと思う。