やっといまごろという感じですが、映画『いのちの食べかた』を観てきました。淡々とセリフもインタビューもなく映像が続くと聞いていたので、フレデリック・ワイズマンの映画『肉』のような感じなのでは?と想像していたのですが、畜産の部分に関しては、まさに『肉』のカラー版でした。たぶんこの映画の監督もワイズマンの『肉』を知っていて、あれの現代版的に作ってるところもあるんじゃないか、とすら思いました。

ただし、時代は移り変わり、見せたいもの、考えさせたいものは違ってきたのだろうけれど。

今日はトークショーがあるなんてまったく知らず、偶然小泉武夫さんのお話を15分くらい聞く機会があったのだけど、映画を見たあとにお話の内容を思い出すと、やはり少し「それだけでいいの?」という感じがしました。もちろんお話はとてもいい内容で、うなずくところも多かったのですが……。(1点だけ、肉を食べることが「必要」だと言ったところだけは賛同できないけれど…(^^; 「必要」と言うと、まるで栄養的に必要かのような印象を与えてしまいます~。肉は多分に文化的要請で食べられていると思う。)

小泉さんがされていた、日本人の「いただきます」がいのちをいただくことを言っているんだという美しいお話、日本人なら生まれたときから何度も何度も聞かされていると思いますが、この映画は、まさにそういう人々の食に対する美化された幻想を「現実はこうだよ」と打ち壊しているんだと思います。

いまや私たちの食べものとなっている動植物は、生あるものとしてではなくモノとして扱われているんだよ、あなたの「いただきます」なんて幻想なんだよ……。

映画を見たあとでも、それでもまだ「『いただきます』はすばらしいよね」だけで済ませようというのが私には理解できないです。精神論も大事だけれど、それにすがって生きていればいいんでしょうか。

生産の現場では、収穫のよろこびはすでに消え、単純作業と肉体労働で人々は疲れ、目の前の生きものも、次から次への作業の対象としてぞんざいに扱われる。現場でも、ごはん粒をむだにしながら、感謝なく料理が食べられている。

そして、モノになりきれるわけもなく苦しい生を生き、命を奪われるおびただしい数の動物たち。

やっぱりこの現実を見て、すこしでも変えようっていう気持ちにはならないのだろうか? と思います。 たとえ微々たる抵抗しかできないのであったとしても。

「いただきます」はすばらしいのかもしれないけれど(でも他の国より優れた言葉だなんておこがましいことは感じないけど)、多くのオピニオンリーダーたちがまるでそれだけでいいかのように言うのは、解せません。思考停止させて何も行動させないことがまるで目的かのようです。

映像を「美しい」と表現していたメディアもあったようだけど、どう考えても「冷たい」とか、そういう形容詞をつけたくなる映像でした。

たしか10代くらいの頃、NHK教育で鶏肉処理工場の様子を偶然見てしまったとき、背筋に走った冷たい感じを思い出しました。それまで鶏は1羽1羽人の手でひねられているのかと思い込んでいたので、逆さにつるされた鶏たちが金属の箱のようなところを通るたびに首がなくなり、羽がなくなり、手羽がなくなり…していく様子にとても衝撃を受けました。人間は、動物を殺す機械を作れるんだ、と。そのこと自体が恐ろしかったのを思い出します。

その映像では、最初に鶏を逆さに吊るすおばさんたち以外は写っていなくて完全オートメーションに見えたのだけど、今思うと人はテレビ的配慮で人を映さなかっただけなのかもしれません。そのことが逆に機械化された冷徹な恐怖の世界に見せていたのかもしれないけれど……

今日の映画も相当はっきり見せていたけど、あの日の衝撃のほうがなぜか大きかったようにも思います。その後ARのビデオでいろいろ見てしまったので、今日はなんとか目をそむけずに見られたような気がします。(初めてだったら、そむけただろうし、それも反射としては当然だろうと思う)あー、でもきつかったけど。

でもたくさんの若い人に見てほしい映画でした。

なんだか長々書いてしまったけれど、最後に気になったことがひとつ。この映画にからんで、食肉加工の工程について「自動車工場のような」という比喩がときどき使われているのを目にしたり耳にしたりして、今日も実は映画館の人がそう言っていたのだけど、それって逆だということは知られていないんでしょうか…?

自動車の製造に初めて分業による流れ作業を導入したフォードは、屠殺場を見て「これだ」と思って参考にしたという話は有名だと思っていたのですが……。自動車工場が食肉処理工場に似ているのであって、逆ではないと思うのです。